詩・死・私

 松本博文氏はこう書いている(twitter@mtmt81より)。

昨日の深夜からは結局徹夜で、詰将棋を作っていた。人から頼まれた仕事は短篇数題だが、勢いで中篇の趣向作など試行錯誤してみたり。缶ビール飲みながらの指し将棋は確実に棋力が落ちるが、詰将棋創作だと妄想みたいな順が浮かんだりして、それがなかなかのアイディアだったりもする。

 詰め将棋には「観る人」はいない。つくる人と解く人がいるだけだ。この関係は詩人と読者の関係に似ているかもしれない。詩の鑑賞と言われるものは、本当は詩を「解く」作業なのかもしれない。固体を液体に解く(solveする)作業。「腑に落ちる」までの、束の間の、あるいは永く続く味わい。
 松本氏及び私への応答として@accelerationさん(ヒッポさん)はこう書いている。

もしかして手が読めなくなる(指将棋の意味で)のがいいのかも。本来指将棋派の人は缶ビール飲みながら創作しましょうww

 私も酒を呑むと文章を「読む」能力ははっきり落ちるが、口舌が滑らかになるのは確かだし(外国語も)、書くことも含め「詩的な」部分の脳が動くと思う。