死都東京

『新潮』6月号掲載の島田雅彦「死都東京」には、まさに微分された心と積分された魂が漂い、滞る。全段落140字構成の、心のさすらい、魂のうめき。故・内藤裕治氏の魂も登場。かつて島田が『フランシスコ・X』で扱ったフロイス『ヨーロッパ文化と日本文化』の、あの研ぎ澄まされた断片、群列とも似て。

新潮 2010年 06月号 [雑誌]

新潮 2010年 06月号 [雑誌]

フランシスコ・X (講談社文庫)

フランシスコ・X (講談社文庫)

May 2nd

TVBros.増刊 みんなの忌野清志郎 2009年 8/29号 [雑誌]

TVBros.増刊 みんなの忌野清志郎 2009年 8/29号 [雑誌]

NHK-FMで「今日は一日清志郎三昧」を聴いていると、散らかった部屋の整理されていない本棚から、忌野清志郎が表紙の1年前のTV Brosが見えた。
「君は駒沢の汗商会を見たか?」の"汗商会"を検索すると、特に清志郎氏と関係なく、2002年に写真を撮ったかたがいた。
東京徘徊

しょうゆう訳で今度は千葉です。~今夜も生でさだまさし~

 テレビで「今夜も生でさだまさし」を見て、「さだまさしのセイヤング」時代の常連投稿者が未だに常連だということに気づいた。16年も前に終わったラジオ番組が「続いている」。「セイヤング」は13年間ほど続いたラジオ番組だが、その間には常連の入れ替わりも当然あっただろう(さだが当時そう語っているのを聴いた覚えがある)。
 終わったからこそ続く。逆に言えば人が「卒業」できるのは、終わらない何か、からだけである。

井上ひさし死去

 私のいた高校に井上ひさしが講演にやってきたことがあった。しかし私は講演を欠席してしまった。母は講演を聞きに行ったので、母からその当時のことを言われ、講演があったと思い出した。その日のことを詳しくは覚えていないが、はっきり覚えているのは、私が、その講演というより学校に通うことすら覚束ない、半ば不登校のような、しかし夕方には決まって高校の生徒会事務局にはいる、という変な状態であったことである。母によると、井上ひさしは昨日から徹夜とか言っていたそうだが、私も昼夜逆転、まともな生活では既になかった。
 同級生らは、私が何か質問するのでは、と思っていたそうだ。生徒総会で必ず質問、意見する人、と私は認識されていたのだ。「国語」を教える担任のかたから、後で「なんで来なかったの」と言われたことをふと思い出した。吃音持ちで遅筆作家代表の井上ひさしにかこつけていえば、その頃から私は「国語」に遅れをとってしまったのであった。国語の作文だけでなく、理科や社会のレポートも、まるで書けなかったのだった。生徒総会での発言だけが、私が「言葉」を使えたほとんど唯一の場のようなものだった。その「政治的な言葉」だけが、「自分の言葉」だったからだ、と思う。井上ひさしにとっての政治ももしかしたらそういうものだったのかもしれない、と書いても、こじつけではないように思う。