将棋の表裏

 表裏の全く無い人間などはいない。もしいるとしたら、全裸で街を歩き回り、排尿・排便、性行為を誰の前でも平然とできるような人間だろうが、犬猫でさえ「毛皮を着ている」のだし、「下半身」については恥じらいを持っている。
 私は他人の「裏」に、そう積極的な興味は無い——恋愛をすれば別としても。自分の「裏」はよく知っておいた方がよいとは思う。そして表裏が解離している人間は嫌いだ。多重人格物語が随分流行ったが、厭なのはそういう物語に出てこない「普通」の解離で、早い話、学問とアニメは語れるけど、その「間」の会話が出来ないような人たちだ。インターネットに、そういう日本人はたくさんいる。表と裏は、せめてメビウスの輪のようであって欲しい。
 棋士とは、子どもの頃からポーカーフェイスで相手を負かすための戦略・戦術を考え続けた人たちだ。そして囲碁と較べ将棋は逆転も多いし、将棋棋士はより表裏ができやすいように思う。ただ、羽生名人が盤上の鬼と呼ばれるというような事態は、もちろん羽生名人の正道を示すものだ。朗らかな笑みを浮かべる羽生名人と鬼のような手を求め盤を凝視する羽生名人は、まさにメビウスの輪なのだから——どちらが表なのか裏なのか、分からない。将棋の駒も、表裏はあるがいずれが真の姿かは決まっていないという意味では、まさにメビウスの輪のようだ。
 問題は「盤外」に「裏」を持つ将棋棋士たちである。典型的には羽海野チカ3月のライオン』第2巻の巻末に登場した安井六段のような棋士たちだ。日本将棋連盟は、これからの棋士たちはたんに(騎士のように)盤上の戦のみに生きるのではなく、一度盤上を離れ普及に重点を置き(いわば「棋師」としても)積極的に活動するということを「表」明している。むしろ対局が「裏」であるかのようにさえ聞こえる、なによりも普及活動が大事という「表」明。——しかし、この「表」明自体に「裏」があるだろう。「盤外」の「裏」が。——現実には、「表」の普及活動に「裏」の対局、というような「表」明にも、ともかく公益法人になりたいという「裏」があり、さらに棋士各人はそもそも連盟の運営にあまり興味が無かったり、果ては普及活動はおろか盤上の戦からも心が離れてしまっているという「裏」があったり……と、どこまでいっても裏・裏・裏が底なし沼のようにあるのではないのか? これでは、メビウスの輪すら構成されない。密教曼陀羅を思わせる構造だ。
 将棋棋士の表と裏の根源は、プロ棋士制度そのものにある——表のプロと裏のアマ。アマからプロになることは極めて困難だし、プロからアマになることもほとんど無い(プロ棋士はたんに引退してもプロ棋士という資格自体は剥奪されないのだ)。この表裏の解離を「輪」として「結ぶ」——プロとアマの差異は「ねじれ」として残しつつ——方向を示さないあらゆる将棋界の「改革」には、必ず底なしの裏があるといってよい。

3月のライオン 2 (ヤングアニマルコミックス)

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