Tiananmen Square protests of 1989

五日
九時半起床。晴。一日テレビ見る。6チャンネル、十時のニュース、鎮圧のフィルムの最後に中島みゆきの「シュプレヒコール」をながす。
高橋源一郎『追憶の一九八九年』)

 今朝の私も9時半起床。20年前は小学6年生だった。激動の一年、という言葉が遣われ始めたのは確かこの年からで、まったく正しい表現という他ないが、その後は「激動の一年」が何回もあったはずだ。
 天安門事件の印象が薄く、幼女連続誘拐・殺人事件の印象が濃いのは、年齢としては当然だろう。登校時にすれ違う中近東出身と思われる細長い体躯の男性(イラン人か)が、目前で遭う唯一の「外国人」だった時代でもある。すぐ傍を流れる川を橋を歩き渡れば東京、という郊外住宅地でさえそうだった。
 中井久夫が、日記を書き続けると日記人格というべきものができる、と書いていたが、高橋源一郎においても『追憶の一九八九年』は恐らく「日記人格」を生んだのであり、明らかに作風に区切りを為した<記録>だ。高橋は学生活動家として高校生時代から「1968年」の運動に参加していた訳だが、1989年の中国の学生運動は、「68年」の運動よりも、高橋が小学生だった1960年の安保反対闘争と似ているように思う。その後に高度経済成長がやってきたのも、1960年以後の日本と同じだ。そして、中国で日本の1968、69年の運動にあたるのは、法輪功(Fǎlún Gōng)なのかもしれない。

追憶の一九八九年 (角川文庫)

追憶の一九八九年 (角川文庫)