鉱物か?

 自分には「萌え」という感情が無い。「分かる」かといえば「分かる」のかもしれない、という程度である。簡単な話、「萌える」と言う人は、「好き」とは「言えない」と「言っている」。なぜ「言えない」のか、それは自らがただ「輝く光」や「潤う水」の力によって植物のように「萌え出づる」受動的な存在(動物、特にけものならば、吠え鳴くこと、そして愛着の表現もできるが、植物には不可能)に過ぎないからだ、と、彼らは能動的に(人間的に)「言っている」。
 受動的な植物か、能動的な人間か。東浩紀はその間をとり「動物化」と書いた。それはほとんど何も「言っていない」のと同じであるが、だからこそ何かを「言っている」(と聞く「動物」たちも大勢いる)。
 将棋の最高級の黄楊駒は「木の宝石」と言われる。植物と人間(駒職人や将棋指し)との出逢いが、鉱物のような芸術を生むという話だ。それは「動物」たちが騙される錬金術(alchemy=the chemistry)なのか? それとも正真正銘の発明(invention)であるのか?