松井秀喜

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 ある選手が「4打数ノーヒットでもチームが勝てばいいとは思わない。僕だったら4打数ノーヒットでチームが勝つより、極端な話、チームが負けても4打数4安打の方が嬉しい。僕らはプロ。結果が出なければクビですから」と言ったそうです。
 言いたいことは分かりますし、そりゃ、打てないよりも打てた方が嬉しいに決まっています。しかし、野球は個人競技ではありません。チームスポーツです。個人個人が力を発揮すべきなのは当然ですが、チームスポーツである以上、最終的な目標はチームの勝利ではないでしょうか。
 僕なら、4打数ノーヒットでもチームが勝つ方を選びますし、4安打してもチームが負ければ悔しい。もちろん、チームの勝利を目指したから無安打でよいとは考えません。チームの勝利を、打てなかった言い訳にはしない。(松井秀喜『不動心』)

 マスコミはWBCイチローを讚えていた。しかし、たんにマスコミ主導、あるいは広告主導の騒ぎではないか。最早イチローに飽きている日本人もそう少数派ではないという気がするのだ。マスコミ報道、広告キャンペーンが、惰性的に見える。キリンビールの広告でイチローと組み合わされている女性が松嶋菜々子で、いかにもアナクロな人選と私は感じるが、2人とも1973年10月生まれ、両者を好む層はある程度重なるのかもしれない。
 イチローはナルシスト。これは、野球を碌に知らずとも、あの顔を見ているだけで、分かることだ。もちろん、自らのナルシシズムを維持するために、類い稀な才能を持つイチローが弛まぬ努力を続けてきたことは、言うまでもない。だが「イロニーの頂点は真面目」と、フロイトは述べた。実際イチローが零す言葉はつねにアイロニカルだ。
 日本人にナルシスティックな英雄を好む傾向があるのは明らかである。石原慎太郎小泉純一郎への熱狂は、その国民性と切り離しては説明することができない。もとより「英雄」はどこかでナルシシズムと縁が無ければ存立しえないだろうが、日本人の好むナルシストは、ナルシシズムを隠そうともしないナルシストである。野球界でのイチローの先達は、もちろん長嶋茂雄だ。彼らを愛する日本人たち自身は、たぶんナルシシズムを隠さなければならない立場のナルシストだろう。とりわけマスコミ・広告業界は、そういう日本人たちが蝟集する巣窟でもある。
 私が、韓国の文化を、映画やテレビドラマ、スポーツ、そして政治から垣間見る限り、ナルシシズムの匂いが感じられない。それが、私がミーハー韓国ファンになった根本的理由という気がする。例えばアメリカ合州国には、外からも鼻をつくほどに、ナルシシズム臭が充満しているようだ。ただし、アメリカのリーダーたちは、やはり自らのナルシシズムを抑制することでエリートとなるように見える。我ら世界の民衆が感じるアメリカのナルシシズムは、むしろアメリカの民衆の側のポピュリズムである。ナルシスト・イチローも、寡黙を貫くことでしか、野球エリートの一員であること、すなわちアメリカ民衆のナルシシズムを満足させることができないようだ。そしてその代償行為として、イチローは日本語ではあれほど冗舌になり、ナルシシズムを隠さないのだろう。他方、韓国では、ナルシシズムの抑制が、上から下まで徹底されているように思われるのである。
 下の記事に書いたように、私はイチローが嫌いで松井が好きで、松井も限りなくナルシシズムから遠い。『不動心』によると、イチローは、不調時には吐き気を催したり、寝ているときに泣いたりもすると松井に語っており、「お前さァ、本当にそんなんでいいの?」と言ったりもしているようだが、実際に胃潰瘍を起こしてメジャーリーグ開幕に間に合わなかったイチローよりも、「プレッシャーを感じない」と語る松井の方が優れた選手である。WBC開催に唯一反対していた球団であるヤンキースが、仮に松井をWBCに出場することを認めていたとして、どんな成績であれ松井は胃潰瘍を起こすことは無かったと思う。むしろイチローよりも優れた成績を残し、本当の第一人者が誰かを示していただろう。
 「お前さァ、本当にそんなんでいいの?」、私がイチローに言いたくなる。イチローがいつも「勝負」の野球から逃げる選択をしてきたことに対して。そのつけとして胃潰瘍に陥ったことに対して。他方、巨人からヤンキースに来た松井は、つねに「勝負強さ」を求められ、認められてきた——では、松井はエリートか?
 松井が歩んできたのは、松井が巨人に入団した1993年以来、「普通の」日本人が味わっているのと同じ、「普通の」境遇だ。たんに報酬が高いことだけで、人をエリートと呼んで片付ける必要もなかろう。かつて、「サラリーマン」が安定と不自由を引き替えにした日常を送りつつ、スポーツの世界に非日常のカタルシスを求めた時代があっただろう。イチローの数々の「大記録」もまた非日常的で、誰にも追い抜けないものであるのも確かだ。そのことの快を、誰よりもイチロー自身が味わってきただろう。しかし、私はそんな「非日常」を願望する時代を、本当は知らないし、ほとんど知る必要も無いと考える。
 サッカーでも同じことだ。村上龍が「あなたの人生よりサッカーのほうが面白いかもしれない」という帯文を書いたが(『フィジカル・インテンシティII 非日常的なカタルシス』)、ヨーロッパ・サッカーの素晴らしい洗練を観るたび、私は古代ローマの奴隷たちの戦争ショーを連想する。イタリアやスペインの巨大スタジアムでの試合ならば尚更である。そこにいる「奴隷」たちは大富豪だが、やはりそれを「エリート」と呼ぶ必要も無いだろう。実際、多くのアフリカ選手たちが、少年時代に奴隷のようにヨーロッパに買われてきた訳だし、彼らがスタジアムにたどり着くまでには、たんに「奴隷」に終わってしまった敗者が膨大に生まれているだろう。
 自らの労働力を売ることは、根本的に不安定と自由の中にしかありえない——松井秀喜には、そうした日常に対する「不動心」がある。私はその強さに対し、「共感する」必要もない。松井を上回る記録を挙げる選手はこれまでもこれからもいくらでもいるだろう。しかし、今ヤンキースが勝つために松井が必要である、という信用が、今そこにある、それだけで十分。松井の上の引用が集団主義の表明ではないのは言うまでもないが、それは、ひたすら「勝負」に賭ける松井の心には、巨人やらヤンキースやらという集団を超えた普遍性があるということだ。

不動心 (新潮新書)

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