平和主義、平等主義

 鈴木正樹氏はこう書いている。

……日本政府は結果論的に、イラクで斬首された香田証生氏とアフガンで銃殺されたペシャワール会伊藤和也氏を区別した。しかし彼らと、ワールド・サッカーの現役競争から辞退した中田英寿氏をもその国家的なビジョン=論理を明確に手にするためにも区別すべきでない。それが、やるときはささいなこと(利害対立や思想上の差異)にこだわらない、<実践的>ということではないだろうか? つまり、何をという目的(内容・結果)というより、どんな立場(論理・過程・文脈・態度)でやるのか? 幸い、日本はそれをラディカルに支援する憲法9条を保持している。それは、国家(官僚)がだめならば自ら銃を持って引きずり下ろすことを保証したアメリカの開拓精神=憲法と同様、積極的な市民の力なのではなかろうか?
現状認識と実践、ビジョンに向けて——高校野球部同期会から 2009年2月20日

 これは、社会運動における「目的」性の否定としてのアナーキズムだろうか。いや、鈴木氏のいう「立場」とは、むしろ他者にとって自らが目的となることだ。つまり、まさに「テロリスト」の標的(目的)となるという「立場」において、香田証生氏は伊藤和也氏と同じだ。のみならず、北朝鮮による拉致の標的(目的)となった者たちの「立場」とさえ等しい。憲法9条は、そうした平等主義をこそ保障する。