私は石
村上春樹のエルサレム賞受賞講演の評判が高い。村上春樹が嫌いだがあの講演はいい、という人もいるようだし、村上春樹に無関心だった人があの講演をきっかけに興味を持つこともあるようだ。先日、電車に乗り合わせた60歳くらいの男性が『ノルウェイの森』の文庫本をめくっていた。オシャレなお爺さん、ではなく、新聞を真面目に読む、ごくありふれた、定年近い背広姿のサラリーマンが、新聞であの講演を知って初めて村上春樹を手にとったという印象だった。たぶん、かつてのfont-daさんのように「困惑」するのではないかと思った(もっとも村上春樹だってもう還暦だ)。
私は10代からずっと個人主義者を自任している。その私は、「卵」か。あるいは、「つねに卵の側に」いる人間か。いずれも否。私は「石」だ。「石」は壁に支えられもし、あるいは文字通り「壁にぶつかり」もし、他の石と衝突もし、傷もついてきたが、自分が「卵」だとは思わない。「つねに卵の側」にいることができるとも思わない。逆に言えば、自分が「卵」だ(だった)と思える人が、あの講演に感動するのではないのか。あるいは自分自身、もしくは村上春樹が「つねに卵の側」にいることが可能と思える人が。
「個」を「卵」に喩える作家は、個人主義者か。「個」は「固」い石であるべき、と考える人間だけが個人主義者ではないのか。「卵」のように弱い「個」もある。しかし「弱い」個は「強い」個にならなければならない。それが個人主義の基本理念ではないのか。「卵」は「卵」のままで、弱者は弱者のままでもよい、という考えもある。しかしそれはまず保守主義と呼ぶべきものだ。保守主義的個人主義、個人主義的保守主義は、折衷にすぎない。煎じ詰めればどこかで必ず無理が生じる——「伝統」の擁護には収まらない「個」として。
ユダヤ人という民族を諸民族中の「個」と看做すことも、当然「無理」を引き起こす。イスラエル国家はアラブの伝統を破壊することでしか存在しえなかったのだから。そしてパレスチナ人を「個」と看做せば、それは「卵」のままである訳にはいかない。パレスチナ人は、サイードのいうバイナショナル国家を実現し、「強く」なる他ないだろうから。それは村上春樹が等閑視する「正義」の実現でもある。
「石」としての個人主義者であり、そして日本人である私は、イスラエル-パレスチナ問題そのものが偽の問題だ、と考えるところから始めるのが、迂遠なようでも、まずは自分にとっての最善の態度と思っている。イスラエルとは、言うまでもなくヨーロッパ問題である。英仏の帝国主義が中東で争った末、イギリスの三枚舌外交がイスラエル国家を用意する。ドイツとロシア(旧ソ連)に代表されるユダヤ人虐殺・迫害が、イスラエル国民を生む。このヨーロッパ列強の帝国主義・民族差別の歴史を批判する「個」は、ヨーロッパの内部には無い。それが言い過ぎならば、日本人には見えない「卵」があるだけだろう。
サイードが出発した『オリエンタリズム』の視野を、近年の学者たちはもはや自明とみなしている。言い換えれば、忘却している。その後の直接に政治的な発言が称揚されるばかりだ。しかし、サイードがまさに英仏を中心としたヨーロッパ-文学への批判から始めたことは、今日なお新しい。或る人間を「卵」(弱く、しかし「気高い」個)と看做す視線そのものが、端的に差別としてのオリエンタリズムではないのか——これは日本における解釈の問題などではなく、サイードの普遍的な問いだ。
Orientalism (Penguin Modern Classics)
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