二流の人・イチローを超えて

 鈴木正樹氏はこう書いている。

 WBC、アジア予選、その決勝、韓国vs日本。以前にもこのテーマパークで言及した、原監督の日本野球道の戦術にがっくりした。むろん私が言っているのは、8回裏にセンターへヒット出塁したイチローを、二番の中嶋にバントで送らせる、というその典型的な作法についてである。見ているほうすら、スポーツの高揚感が萎縮させられる。
(中略)
 ……バッターはなんと、はじめからバントの構えを見せて打席に立った。高校野球レベルでも、これは信じがたい話である。(後略)
WBCアジア予選から、その世間事情 2009年3月14日

 だが、事態はもう少し根深いと私は推測する。恐らく原監督は、そのとき大打者イチローに対し敬意を表していたに違いないのだ。だからこそ、ついに貴重なランナーとなることができたイチローを、「殺すな」ということを大前提として、送りバントを指示したのではないか?
 しかし、イチロー<ごとき>にそんな敬意が必要か。もっと正確に言えば、イチローが打つことがどれだけチームが勝つことにつながってきたのか。つなげうるのか——そのフィールドが日本であれ、アメリカであれ。監督が考える必要がある確率=格律はそこだけで、仮にその観点からイチローといういち選手を見ていればこそ、送りバントという愚策は選ばれなかったのではないかと思われる。
 当たり前と思うが、そもそも野球の勝敗の5割以上は投手の能力で決まっているだろう。そして投手の能力は「防御」率で測られうるが、実際に投手が行っている仕事は、サッカーのフォワードと似た行為、ストライクゾーンに優れたボールを叩き込むことだ。その行為の方を「攻撃」と看做すのが自然、というのが、国際連合United Nationsよりも参加国・地域数の多いサッカー・ワールドカップに熱狂する、世界の民衆の共通感覚ではないのか? 仮にイチローがサッカーをやれば、反射神経に長けたイチローはたぶん優れたゴールキーパーになれるかもしれないが、それだけではチームは勝てない。サッカーと野球はまるで違うが、「勝つ」ために必要な何かは、スポーツさえ超えて、どんなフィールドであれ根本的には同じであろう——「反射」ではない何か、が不可欠だ。原監督の采配もたんに「反射」的だったが、イチローの打撃はその同類なのだ。
 「韓国は日本に30年間勝てない」。3年前のイチローはこの台詞で韓国を挑発し、その後日本は韓国に2連敗した。神風的にめぐってきた最後の韓国戦のチャンスで——もちろんこれも「神話」にすぎない。松坂の好投がもたらしたチャンスだ——イチローは打ち、チームも勝ち、決勝のキューバ戦での再びの松坂の快投の下で日本は優勝もしたが、イチローはつくづく馬鹿な選手であるという他ない。私はイチローの発言を差別的なものとして糾弾するが、全くその観点を抜きにしても、イチローは戦略的に愚かな選手だ。イチローにはたぶん、差別、はおろか、挑発しているという意識も無く、あれもまた「反射」的な発言なのだったと思う。
 JリーグFC東京の熱狂的サポーターの知人によると、未だ横浜にいた中村俊輔が、東京との対戦前に「あんな部活サッカー」という言葉を吐いたことがあったそうだ。要するに全員がひたすら走りまくるサッカーのことで、それこそ韓国のサッカーに典型的でもあるが、もちろん中田英寿イビチャ・オシムが口を酸っぱくして強調したのもその必要性だ。憤慨した味の素スタジアムの東京サポーターは、ちょうどその試合日が誕生日だった中村に向かい「ハッピーバースデー俊輔♪」と嫌みに歌い続け、東京の点が入るたびに落胆していった俊輔を容赦なくいじめ抜き、横浜の大敗に終わる最後には、中村は泣き出したという。俊輔もイチローも、いつまで経ってもこの種の幼稚さを抜け出すことができない。もちろん辰徳も、いつまでも「若大将」にすぎないが。
 上に引用した記事の冒頭で、鈴木正樹氏は岡崎乾二郎の文章を掲げている。

 …こうして予想外の要素の混入がなければ新しい技術の発見もありえないわけです。ここで徂徠は技術という技術は破綻することが宿命づけられているといっているのでしょうか。いや、その反対に徂徠は、このようにけっして一義的に絞り込めず予測もしえない事象の生起、因果の偶発性を、にもかかわらずけっして偶発的なものではないとみなす——信じる——こと、そうした「理論的信」こそが技術者の行動を正常に制御し技術の向上を促す原理となりうると述べているのです。不可能で制御しがたい偶発性(そう受容してしまう知覚の錯乱性)を、にもかかわらず必然として繋ぎ止めるために要請される存在それが鬼神です。つまりここでもわれわれは、それ(その因果性)を経験的には知覚しえないが、しかし、それがたしかに在ることを知っているという、パラドキシカルな認識に出会うことになる。
「確率の技術 技術の格律」

 しかし「鬼神」など不要である。偶然-必然という回路で「認識する」からそのような神秘主義(オカルティズム)が出てくるのだ。岡崎が囚われている小林秀雄的な「認識」の問題機制を超えるのは、坂口安吾の必要-不要という立場だ。それはプラグマティズムの領域ではない。冷徹なまでの力の論理、食うか食われるかの選別だ。とはいえ、マッチョな暴力で自己防衛することも「不要」だ、ただ知性intelligenceさえあれば、自分が必要とする物(情報)を他者が必要とする物(情報)との交換によって獲得し、「勝つ」ことができるだろう——これは「理論的信」ではなく「実践的信」だ。例えば特攻隊も、自分の命と他人(敵)の命との純化された交換形態なのであって、自殺(腹切り)の美学を徹底的に否定する安吾が賞賛するとおり、日本軍としては最も優秀な戦法である。これに対し、イチローや俊輔の不要な発言は、不要な応答を生むだけだ。
 私は、ずっと桑田が好きだ。関東の平凡な少年として巨人ファンだった時代が遠く過ぎても。野茂も好きだ。打者でいうのなら、落合や松井秀喜が好きだ。彼らのフォームには、すべて「ため」がある。イチローは打席に入る前に屈伸運動をするが、打席では「ため(らい)なく」反射運動を繰り返すだけだ。これに対し桑田や野茂や落合や松井の場合、勝負するフォーム自体がそれぞれ屈伸運動のようだ。ちなみに羽生善治名人が駒を手に取り盤上に置くフォームにも、「ため」がある。最近は終盤戦で「ため」が手の震えとして現れることすらあった。それらの「ため」は、湯浅誠のいう「ため」と同じく、他者(「汝の敵」も含め)に網を張り(networkし)、主導権initiativeを握ろうとする「余裕」であろう。

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